今回は番外編として、河合利宗はもともと何をやっていたのか?
という部分をお話したいと思います。
僕のルーツは小学校1年生まで遡ります。
ビジネス的な動きを初めてしたのが小学校1年生ということです。
何をやったかというと、『ビックリマンチョコ』に付いてくるおまけのシールのトレードですね。
当時は社会現象になるほど流行っていて、ビックリマンシールは小学生の間で大人気でした。
今でも当時のシールが1万円以上するものもあります。
今高額で取引されているシールも持っていました。
ブラックゼウスとかね(笑)
そのシールのトレードというのは、
神様・お守り・悪魔という3種類のシールとヘッドと呼ばれるキラキラのシールがあり、シールによって人気不人気が当然あるわけです。
何個買ってもお目当てのシールが出てこないと、友達とシールの交換をしたりします。
こうやって自然に市場は形成されていくわけです。
大人の市場も子供の市場も一緒。
その市場に目をつけて、通常より良いレートでシールを仕入れ(交換)て、
それを別のところで交換するみたいなことをしていました。
そうやってほとんどの種類のシールを集めて、
コンプリートしたシールを売ったりもしていました。
たぶんここがビジネスの始まりだと思うんですよね。
ビックリマンシールだけではなく、こういった手法は他でも応用していました。
年月は一気に飛び、大学時代の話になります。
僕は車が好きで、ドリフトをやっていました。
ドリフトをする車以外も好きで、スポーツカーは当然として、大衆車やファミリーカーまでも抑えていました。
そのため国産車のほとんどの相場感覚を持っていました。
当時はヤフオクが流行りだしたときで、
出品手数料などもない時代。
ヤフオクで車を売買する人も増えてきており、市場が形成されはじめた初期という感じでした。
僕はそのヤフオクに目を付けて、
ヤフオクないで市場よりも安く出品されている車を見つけて落札し、
同じヤフオク内で市場価格よりほんの少しだけ安く出品するということを繰り返していました。
当時は認識がなかったため『転売』という言葉を使っていませんでしたが、
ヤフオク内で自動車転売を行っていました。
ただし、古物商の免許を持っているわけではないので、あくまでも自分で乗る車として購入し、また手放すという繰り返しですね。
大学生時代の最高年収は自動車転売だけで600万円を超えた年もありました。
それとは別に居酒屋のアルバイトで月30万円前後稼いでいたので、
年収が1000万円近くあった年もありました。
自動車転売についてはまた別の機会に詳しく書きたいと思います。
ビジネスの基本が詰まっていたなと思います。
色々と工夫もしましたし。
大学が終わり就職するわけですが、
最初の会社は光通信出身の人が立ち上げたバリバリの営業会社でした。
僕はホームページを売る部署に配属されました。
WEBの知識なんてほとんどありませんでしたが、
営業にはそんなことは関係なく、タウンページの片っ端から電話を掛けまくってアポイントメントを取り、ホームページの営業に行くというシンプルな仕事でした(笑)
高校3年生の時にテレアポのバイトをしていましたが、全く同じ流れでした。
ぶっちゃけ高校の時のバイトの方が電話を掛ける先のリストがしっかりしていたのでマシでしたね。
中学生向けの勉強教材のアポを取るバイトだったのですが、
当時は小学生の卒業名簿が手に入る時代だったので、新中学生の親に電話するみたいな感じでした。
テレアポの成績はかなり良くて、
週4、1日4時間のバイトで30万円くらい稼げました。
成績が良いと報奨金が出たんです。1件3万円とか出るので、かなり効率は良かったです。
ただ、ホームページの営業も学習教材の営業も同じなんですが、
テレアポって100件電話して1件アポが取れれば合格というレベルなので、
基本的には断られることが前提なんです。
これが意外と辛くて精神的にやられ、電話をかけることが辛くなってくる人がほとんどで、すぐに仕事を辞めちゃうんですよね。
僕は成績が良かったので支店長からも気に入られ、優遇されていたのでそこまできつくはありませんでしたが、楽でもありませんでした。
就職しても高校時代のバイトと同じことをやっていたので、意味がないと判断し、2ヶ月で会社を辞めました。
会社からしたら辞める人が8~9割なのでなんとも思いません。
なんせ、500名採用して1年後に50名残っていればそれで良いという考えでやっているような会社です。
バリバリの営業会社なんてそんなもんです。
で、今度は転職活動をするわけですが、今度は自分の好きな自動車業界がいいなと。
普通の車関係では面白くはないので、これから成長する会社がいいなと思い、色々と探していました。
そんな中で目に止まったのが、
事故車をそのまま海外に輸出して、現地で直して売るというビジネスモデルの会社です。
これは非常に面白いなと思い、面接のアポを取り、
翌日には即面接、その日の夕方には採用の電話がありました。
非常に早かったです。
ただ、採用の電話の際に、
「前の会社を2ヶ月で辞めているのが気になるんだよね。
また前の会社みたいにすぐに辞めたりしない?」
と言われました。
当然返答は
「そんな事ありません!」
です。
結果的にはその会社も5ヶ月で辞めてしまうわけですが(笑)
入社して2ヶ月間は可能性を感じていたのですが、
3ヶ月目に問題点に気付き、これは成長が止まるなと確信してしまったのです。
事実そこから成長は止まり、当初上場を視野に入れてそれに向かって準備もされていたのですが、けっきょく上場は叶いませんでした。
5ヶ月目に入った2005年12月にネットビジネスと出会い、独立を決心し、
速攻で会社に辞表を提出し、2週間後には退職しました。
2006年1月に晴れて独立し、ネットビジネスで稼いでいくこととなるわけです。
もう一つおまけの話を。
大学生時代にドリフトをやっていたので、稼いだお金はほとんど車につぎ込んでいました。
バイトは居酒屋だったのですが、車関係のバイトで働いた方が、車のメンテナンス代などを節約できると考え、中古パーツの販売をしている会社にアルバイトとして入りました。居酒屋と掛け持ちです。
そこの中古パーツの買取販売をしていた会社の社員は、お世辞にも品のある感じではなかったのですが、業態そのものの目の付け所が良くて、数年で上場しました。
元不良みたいな人が現場には多かったのですが、
上場したときにはその元不良達が上場会社の取締役までになっていました。
誤解のないように説明しておくと、仕事は熱心で、男として熱い人が多かったです。もちろん変なのもいましたが(笑)
この時思ったのが、成長産業で勝負することが絶対に有利であるということです。
時代の波に乗ることがどれだけ重要かってことです。
2006年当時は、ネットビジネスの市場はまだまだとてつもなく小さく、認知度も極端に低い時代でした。
しかし、そこから14年以上が経ち、その間にも様々な流行が起きては無くなったり、Yahoo!やGoogle検索エンジンのアルゴリズム変動が数え切れないくらい起こり、プラットフォームの利用規約変更により手法が変わったりなど、多くの問題を乗り越えてきました。
しかし、その都度その問題に対応してこれたからこそ今があるのですが、
2019年に初めて、ネットビジネスという業界の存続が危ぶまれる自体になったのです。
実際は旧態依然の手法で荒稼ぎしていた一部の人が困るだけで、本当に実力のある人達にとってはむしろ歓迎すべき状態になったと思います。
しかし、対応するのに時間がかかるのも事実です。
コストはどうしてもかかってしまいます。
最後は話がそれてしまいましたが、ざっくりとこんな感じでネットビジネスにたどり着いたわけです。
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